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甲斐よしひろ60歳が語る甲斐バンドの“緻密な戦略”―今だから明かす解散の真実

甲斐よしひろ60歳が語る甲斐バンドの“緻密な戦略”―今だから明かす解散の真実

甲斐よしひろ60歳が語る甲斐バンドの“緻密な戦略”―今だから明かす解散の真実甲斐よしひろ60歳の人生哲学“ロック魂”に迫る!
『裏切りの街角』『HERO(ヒーローになる時、それは今)』『安奈』『ビューティフル・エネルギー』『東京の一夜』など、甲斐よしひろ率いる甲斐バンドには、今もカラオケで歌い継がれている楽曲が多い。

今回は、2014年8月9日、10日に大阪・オリックス劇場で結成40周年記念ツアーの大阪公演を行う「甲斐バンド」のボーカル、甲斐よしひろ60歳の人生哲学“ロック魂”に迫る!

「テレビを選ばなかった」甲斐よしひろの緻密な戦略

「僕らがデビューしたばかりのころ、日本のロックに市民権はなかった―」

ロックという分野の音楽を歌謡曲と肩を並べて初めてヒットチャートに送りこんでいったのが甲斐バンドだ。

甲斐バンドがデビューした1974年は、郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の新御三家、山口百恵、桜田淳子、森昌子の「花の高1トリオ」が歌謡界を賑わせていた。

吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫、チューリップなどのフォークソングブームはあったものの、やや飽和状態。さらにロックといえば洋楽中心だった。

そこに現れたのが甲斐バンド。

デビュー翌年に出した2枚目のシングル『裏切りの街角』が75万枚の大ヒットを記録する。

裏切りの街角

するとテレビからも続々と声がかかるようになる。

顔を売るにはテレビが手っ取り早かったが、甲斐よしひろはテレビを選ばなかった。甲斐バンドには独自の戦略があったのだ。

甲斐は、自分たちの音楽がきちんと伝わるからといった理由で、活動の場をテレビではなくホールとライブハウスに徹底していた。

「100人、150人しか客が入らなくてもいい、どんなに小さな場所でもいいから、生演奏できる場所を選んだ」という甲斐よしひろ。

そのスタンスが功を奏し、観客動員数はどんどん増えていき、1年後には中野サンプラザ2daysのチケットが1時間で売り切れる快挙を成し遂げたのだ。

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甲斐バンドが日本の音楽シーンを“ロック”に変えた

甲斐バンドがつくったこの流れは、次第に日本の音楽シーンを流れを変えていく。

1978年にはツイスト、原田真二、サザンオールスターズが相次いでブレイク。

若い世代を巻き込んで、ジャパニーズロックブームが到来したのだ。

「甲斐バンドはロック第1世代、第2世代がツイスト、サザン。僕らが全国ツアーで大阪厚生年金会館に行った時に大学生だった世良公則くんが、会場でアルバイトしていたっていうから」

甲斐バンドは“ロックバンドでは初めて”ということを次々に成し遂げていった。

「僕は動きながら考えていくタイプなんです」という甲斐。

新しいことをすると、また次にすることが見えてくる、そしたら宣言する。有言実行型なのだという。

まず甲斐バンドはNHKホールでのライブを実現させた。なぜこの場所かというと、それまで歌謡曲と演歌のんしか使えないホールだったからだ。

『HERO』がヒットして紅白に誘われたとき、「それよりNHKホールを使わせてもらえませんか?ライブを生中継しませんか」と交渉したのだという。

その後も花園ラグビー場、新宿副都心、両国国技館のこけら落としと、ロックコンサートとは縁遠い場所で次々にライブを敢行。

品川プリンスホテルのゴールドホールで、全員オールスタンディングの公演をやったのも、甲斐バンドが初めてだった。当時、ライブ会場に席がないというのは、考えられないことだったのだ。

甲斐よしひろが“初めて”にこだわるのには、理由がある。

「例えば武道館2daysやっても、翌日の新聞には本当に小さな記事にしかならない。でも、初めてのことをやると大きな記事としてデカデカと扱ってくれた。」

このエピソードからも伝わるように、甲斐よしひろには常に緻密な戦略がある。

コンサートプロモーターとして、ほとんどすべてのステージに帯同してきたディスクガレージの中西建夫社長によると、「甲斐さんがステージで放つ客席を巻き込んでしまうオーラは圧巻でした。」という。

中でも今でも忘れられないのは武道館のステージを初めて見た時のことで、甲斐さんが登場したとたん、会場全体の空気が大きなひとつのうねりになったことがあったのだという。それを体感した時には、鳥肌が立ったそうだ。

当時は20代の若手だった2人。かたやビッグアーティストになり、かたや社長になった。そこにも時の流れとサクセスストーリーを感じてならない。

1986年、甲斐バンド“解散”の真実

名実ともにライブの王者になっていた甲斐バンドだが、デビューから12年目の1986年に解散を宣言。

「ツアーをやりながら、その合間で何枚もアルバムを作っていく。いつも全力を出し切っていてヘトヘトになっていった。

生身の人間同士だから、いい時期もあれば悪い時期もあるんだけれど、それがそのままアルバムに出てしまうようになった。」

バンドがもめる原因で多いのは、えてして金銭トラブルなのだが、甲斐いわく、「それはなかった」という。

メンバーの取り分はコンサートのギャラは4等分、歌唱印税もきれいに4等分。調、曲の印税は作った人がもらうことになっていたという。

当時の歌謡界にはリーダーがギャラの半分を取り、残りをメンバーの人数で割るなんて例もあったが、そうした確執とは無縁だった。

うまくいかなくなった一番の原因は、取り囲む環境の変化だったという。

結婚し家族ができたメンバーもいた。音楽だけをやっていればいい状況ではなくなっていった。

年に100~120本のツアーのライブをしていると移動日を含めて1年中休みなく働いているような状態になる。そんな生活が軋轢を生むようになったという。

納得した作品が届けられないなら、いったん区切りをつけたほうがと、甲斐よしひろ自身が最終的に決断したという。

バンドが一番勢いに乗っていた1982~1984年

バンドが最も勢いに乗っていたのは、1982年から1984年にかけて。ニューヨークで、ブルース・スプリングスティーンやローリング・ストーンズのエンジニアでもある、ボア・クリアマウンテンと3枚のアルバムを作っていた時期だという。

甲斐はこの次期を「いいものを届けようとする4人のエネルギーが、ひとつに集結していましたね」と評価している。

再結成と解散を繰り返し、2014年で40周年

甲斐バンドはいったん解散したものの、10年後に期間限定で再結成。

その後も再結成と休止を繰り返しながら、2009年には結成35年を契機に再び甲斐バンドの活動を開始。今年が40周年になる。

甲斐よしひろの軌跡

甲斐よしひろは1953年、福岡・博多に生まれた。

男兄弟4人の末っ子。両親は理髪店を営む理容師。父は、マンドリンを弾くのが趣味だったという。

土地柄、米軍基地がいたるところにあって、ラジオをつければ、FEN(在日米軍向けの極東放送網)からアメリカのヒット曲が流れていたという。

小3の時にリバプールサウンズブームがやって来て、ビートルズ、ストーンズ、キンクスをよく聴いていたという。

甲斐は中学でギターを弾くようになる。

高2の時から1年だけ、海援隊やチューリップを輩出した地元のライブ喫茶『照和』で歌っていたが、いったん大手旅行会社に就職。そこを4ヶ月で辞めて、ふたたび照和に戻った。

当時学生運動などで騒然とした時代、チューリップ、甲斐バンド、井上陽水、武田鉄矢、鹿児島出身の長淵剛などのスターが次々に誕生した伝説のライブ喫茶だ。
当時学生運動などで騒然とした時代、チューリップ、甲斐バンド、井上陽水、武田鉄矢、鹿児島出身の長淵剛などのスターが次々に誕生した伝説のライブ喫茶だ。

この頃の『照和』には今も音楽界で活躍を続けるプロミュージシャンたちが何人も出入りしていた。

THE MODSの森山達也、ARBのボーカルを経て俳優としても活躍する石橋凌、現在甲斐バンドのギターでもある田中一郎らもそうだった。

照和での甲斐は、彼らの兄貴分だったという。

ギターの田中一郎いわく、このころ甲斐はすでに40曲以上のオリジナル楽曲を作っていたという。

「デモテープは照和が閉店した後、そのままそこを借りて録音していました。地下がライブハウスで、1階と2階が喫茶店。夜中に腹が減ると2人で喫茶店に忍び込んで勝手に冷蔵庫のポテトサラダを食べたり、サンドイッチを作ったりして、よくチーフに怒られてました。」

まさに映画のワンシーンのような青春群像劇。

その後、それぞれが違うバンドでのプロデビューとなったが交流は続き、田中は1984年に甲斐バンドの正式メンバーになっている。

「甲斐バンド」デビューエピソード

甲斐バンドがデビューするきっかけになったのはコンテストでの優勝だった。

甲斐よしひろはソロで出場していたが、スカウトの声がかかると、バンドでデビューすることにこだわった。

『照和』の音楽仲間だった大森信数(ギター)、長岡和弘(ベース)、松藤英男(ドラムス)の4人で甲斐バンドを結成。

当時彼らを担当した東芝EMIのディレクター、中曽根純也氏は言う。

「甲斐さんが21、僕が26の出会いでした。声、詞、曲に独特の世界観があった。時代を象徴する音楽がいよいよ出てきたと思いましたね。彼自身も非常に魅力的でスター性のある男だったので“これは売れる”と直感しました」

上京した4人は新高円寺の青梅街道沿いにあった2DKのマンションに同居し、東京での生活をスタートさせた。中曽根氏が続ける。

「そこによくウイスキーを持って遊びに行きましたよ。男4人で誰も掃除しないから、まあ汚くて(笑い)。酒を飲むと、音楽以外の話をすることが多かったですね。」

甲斐よしひろが生み出す独特の詞と歌の世界

読書家でもある甲斐よしひろ。博覧強記(はくらんきょうき)で、読んだ本の内容はほとんど覚えているという。

「語彙も豊富だし、それがあの独特な詞の世界観を生み出しているんだと思います」というのは前述の中曽根氏だ。

甲斐よしひろの書く詞は耳に残る言葉が多い。

どんなところでどんなふうに生み出されてきたのだろうか。

「机に向かって書いたことは1度もないですね。誰もいないオープン直後のバーに行って、ボケーッとカウンターに座っていると、上から言葉が降りてくる。そういうリラックスした状況がいいんです。だから歌詞はほとんどがコースターの裏に書かれたもの。昔からそうですよ」

そうして生み出された詞と、1度聴いたら不思議と耳に残るサウンド。甲斐バンドはデビューしてからの伝説を次々に築いてきた。

還暦を過ぎたとは思えない若々しさと色っぽさ。あらゆる方面に興味を持てる好奇心の旺盛さ。どんな話題も冷静な独自の視点で分析できるクレバーさ。

それが、甲斐よしひろの魅力だ。

「日々やっていることが、声とか、顔とか、色気にそのまま出る。それは年を取れば取るほどそうじゃないかな」

2014年7月から、ニューアルバムを引っ提げて40周年記念の全国ツアーに出ている甲斐バンド。

甲斐よしひろ60歳―セクシーな男の色香を惜しみなくカリスマのロック魂が衰えることはない。

「ライブに来るお客さんは、3世代。その年齢層の幅広さが、そのままバンドの歴史になっているんだと思う。ツアーは会場に足を運んでくれたすべての人たちを満足させる内容にしたいですね」と甲斐は笑う。
「ライブに来るお客さんは、3世代。その年齢層の幅広さが、そのままバンドの歴史になっているんだと思う。ツアーは会場に足を運んでくれたすべての人たちを満足させる内容にしたいですね」と甲斐は笑う。

2013年に出した『ROCKS』に続く、全曲ニューレコーディングベストアルバムの第2弾。
「ファン投票による上位曲とメンバーが選んだ、今だからやこそ演りたい曲を収録しました。慣れ親しんだ曲を集めただけのセルフカバーのベスト盤にはしたくなかった。」という甲斐バンドの今を切り取ったアルバムだ。

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