40年の歌手生活を迎えたさだまさしさんの今の心境とは
2013年の7月17日にソロコンサートが前人未到の4千回に達し、2013年10月25日でデビュー40年を迎えたさだまさし。
さだまさしさんは60歳を過ぎてもコンサートを続けている。そして、若いころより、今のほうが伝えたいことが伝わっていると思うという。
デビューしてしばらくは、若造というだけで普通に言う言葉も伝わらなかったり、売れたことで嫉妬されたり、誤解されたり、悪口もずいぶん言われたというさだまさしさん。
しかし、「スタンスがぶれなければ、必ず受け入れられるときがくる」と信じてずっとやってきた。これは、さだまさしさんの誇りのひとつだ。
そして、軸足がぶれなかったことで徐々に信用してくれる人が増えてきたと思うという。
今回は、デビュー40周年を迎えたさだまさしさんの半生と、歌手を続ける原動力にもなった30億円もの負債、これからの歌への向き合い方についてクローズアップする。
「もう一度歌手をやれ」と言われたら、断ります
さだまさしさんは1952年4月10日生まれ、長崎県長崎市出身。
1973年、フォークデュオ「クレープ」としてデビューした。
1974年、デビュー2作目の『精霊流し』がミリオンセラーになり一躍注目を浴びる。
『精霊流し』
その後、ソロ歌手に転じ、数多くのヒット曲を世に送り出し、現在に至っている。
さだまさしさんの40年の歌手生活を四字熟語で言うと「空前絶後」だという。
「『もう一度やれ』と言われたら、断ります。二度とやりたくない。それくらいしんどかったですね、いろいろあって。たとえば、会って、話をして「さだは暗い」と言われるぶんには「まあ、しょうがないな」と思うけど、会ったこともない人に「さだの歌は暗い」と言われると、「暗くない歌もありますよ」と言いたくなるし。」
暗いという言葉が単純に「好きか、嫌いか」の言い訳にされていた時代があったというさだまさしさん。
「嫌いなら『嫌い』とはっきり言ってくれたほうがわかりやすい。『さだは嫌いだ』と言われれば、『どうもすみません』と謝れるけれど、『さだは暗い』と言われると、『どこが?』と言いたくなる」
さだまさしさんが思うに、“暗い”というのはエネルギーが充満している状態で、それがパーンと弾ける状況が“明るい”なのだという。
だから、弾けている最中に何かが生まれることは絶対にありえない。暗さのなかでしかものは作れないし、ものを作っているときは自分と格闘しているから、確かに暗いという。
だから、これまでずっと音楽と格闘し続けてきたし、一方では、会ったことも、話したこともない人間に悪口を言われてまで歌う理由はないと思っているという。
[ad#ad-1]
もともと歌手を目指していたわけではなかった
さだまさしさんは元々は、歌手を目指していたわけでは無く、デビュー当時から芸能界に対する執着心は希薄だったという。
3歳からバイオリンを始めたというさだまさしさん。将来はクラシックのバイオリン弾きになるのが夢だったという。
しかしその夢が頓挫してしまった。
でも、何らかの形で音楽にかかわって生きていきたい。そこで、歌謡曲のメロディなら自分にも書けるんじゃないかと思い、作曲家になりたいと思ったのだという。
そう思って曲を作り、それに詞を付けて歌にしたけれど、誰も歌ってくれない。ならば、自分で歌うしかないということで歌手になったのだという。
最初は本当に歌がへたくそだった
「歌がへたくそなのはわかっていました」というさだまさしさん。最近はだいぶうまくなってきたけれど、最初は本当にへただったという。
当時、NHKの歌番組にはオーディションに通らないと出られなかったが、落ちる人間はあまりいなかったという。しかし、さだまさしさんはそこで落選を経験する。歌がへたなのに加え、あがり性だったのだという。
コンサートでしゃべるのはあがりをごまかすため
さだまさしさんといえばコンサートでの軽快なMCが大人気だが、実はこれはあがっているのをごまかすためなのだとか。
最近ではさだまさしさんのトークが「お笑い芸人よりおもしろい」という声もあるくらいだ。
歌手を40年やれた理由のひとつ「借金」
さだまさしさんが歌手を40年やれてきたのにはそれなりの理由がある。
そのひとつが負債だ。多額の借金を背負い、それを返済するのになんと30年かかったという。
その間は、何があろうと歌手をやめるわけにはいかなかったのだという。
負債の原因
1981年、28歳だったさださんは中国大陸を流れる揚子江を舞台にしたドキュメンタリー映画『長江』(主演・監督・音楽 さだまさし)を制作。
映画は興行的には成功したが、それ以上に諸経費がかさんでしまい、総計28億円、金利を入れて35億円近い負債を個人で負うことになった。
なぜ中国で映画を撮ったのかというと、さだまさしさんのルーツが中国にあるからだという。
さだまさしさんの祖父は中国大陸からシベリアを股にかけて活動した国際探偵—つまりスパイだった。
祖母は若いころシベリアにわたって砂金で大金を得て、その後ウラジオストクで松鶴楼という大きな料亭を経営していた。
その料亭へ官憲に追われた祖父が逃げ込み、かくまっているうちに生まれたのがさだまさしさんの父だった。
そういう経緯があり、昔から中国大陸にはあこがれがあったのだという。
2億円あればできると思っていたら30億円かかった
最初は2億円もあればできると踏んで、手持ちの2億円で撮りはじめたという映画だったが、終わってみたら30億円近くかかってしまったという。
金利を入れて35億円近い借金は、さだまさしさんの会社ではなく、個人の借金のため返さざるをえない。
会社を維持し、社員に給料を払い、なおかつ税金も払いながらの返済だったので、かなり厳しかったという。
10日ごとに8千万円、5千万円、1億5千万円という手形を落とさなければならなかったそうだ。
借金を返すために『神出鬼没コンサート』
さだまさしさんは自らの35億円の借金を返すために、大都市だけでなく、『神出鬼没コンサート』と銘打って、地方の小さな町でもコンサートをはじめる。そうでないと生きていけなかったという。
負債の額がわかったとき、破産宣言するよう勧めてくれた人もいたという。「そうすればチャラになって楽になるから」というアドバイスだった。
このときは一晩考えたというさだまさしさん。その結果、貸した側の身になって考えてみようと思ったそう。
お金に関してはプロの銀行が融資してくれたのは「さだまさしなら返せる」と考えたからに違いない。だったら返せるんじゃないか。ここは“プロの勘”に懸けてみようと思ったのだという。
返済の過程で2度不渡りを出したことがあったというさだまさしさん。
半年に2度不渡りを出すと取引停止になってしまうが、さだまさしさんの場合は数年おいてだったため、会社は潰れなかった。
このままいけば返せるんじゃないかという思いから「返そう!」というモチベーションになれたという。
返済が終わったときには脱力感に襲われ「ああ、これで返済に追われなくてすむ」と思ったという。
借金を返済する過程で感じたり、学んだことはいっぱいあるというさだまさしさん。
莫大な借金を返済できたのも、前人未到のソロコンサート4千回を達成できたのもひとえにファンのみなさんのおかげだという。
これからは、みなさんに恩返しをしなければいけない。ということで、歌手をやめたくてもやめられないのだという。
小説家としてのさだまさし
さださんは歌手だけでなく小説家としても知られ、その作品の多くは、テレビドラマや映画化されている。
家族の再生を描いた『サクラサク』は緒形直人主演で映画化されて、2014年4月5日に公開された。
『サクラサク』予告編動画
小説を書くようになったのは、40代になって、世間的にさだまさしが“飽和状態”になった時期があったからだという。
「さだまさし?ああ、知ってる、『関白宣言』でしょ、『秋桜(コスモス)』『案山子(かかし)』でしょ。知ってる、知ってる」と日本中が、すっかりさだまさしを理解している気持ちになってしまい、コンサートで自分の思いが伝わらないことがあったからだという。
そんな悩みを抱えたさだまさしさんに朋友から「一度“戸籍”を変えてみないか」と言われたという。
その理由は、「歌手ではなく、違う角度から“さだまさし”を見てもらうと、違う角度からおまえの歌が聞こえてくるんじゃないかな」「じゃ、何をすればいいんだ」と彼に聞くと、「小説を書けと」と言ったのだという。
それで、49歳のときに、初めて小説(『精霊流し』)を書いたのだという。
さだまさしのこれから
これからについてはさだまさしという名よりも、後世に歌い継がれる“歌”を残していきたいという思いが強くあるという。
名前はいずれ忘れ去られるものだから、残らなくてもかまわない。でも、作者不詳だけど、歌い継がれる歌ってすごいと思うというさだまさしさん。
「“歌”というのは、本来そういうものだと思うんです。それと、ファンに対する恩返しとして、みなさんを、音楽的にも、文学的にも、エンタテインメントの面でも、もっと高いところへご案内するのが僕の務めだと思っています。
そのためには、僕自身が現状に満足して、今まで築き上げてきたものを守るのではなく、そこに1ミリでもいいから何かを積み上げていかなければいけない。そうなれるよう、これからも努力を重ねていきたいと思っています。」
LEAVE A REPLY