マッサンとリタ、揺るぎない夫婦の絆はいかにして生まれたか
1920(大正9)年、まだ国際結婚が診しかった時代に、英国で恋に落ちて、結ばれた竹鶴政孝とリタ。
2014年9月末に始まった朝ドラでは“亀山政春とエリーの人情喜劇”として描かれているが、実際の2人の喜らしは苦労が絶えなかったという。
病弱な体を押して海を渡り「日本人になりきる」決意をしたリタは64歳でこの世を去るとき、いったい何を思ったのだろうか?
今回は、マッサンとリタの生涯を紐解き、二人の出会いから、揺るぎない夫婦の絆が生まれるに至った過程をご紹介する。
日本初の本格ウイスキーを造るという夢に突き進んだマッサンと、遠い異国の地で言葉も習慣もゼロから学んでいったリタ。
その信念を支えたのは、何があろうと揺るぎない夫婦の絆だった。
竹鶴さんは本物のジェントルマン
マッサンとリタ、ふたりを知るニッカOBは口をそろえて「竹鶴さんは本物のジェントルマン」「リタさんは日本人以上に日本人だった」というという。
“本物のジェントルマン”竹鶴政孝はどのようにして生まれたのだろうか。
1894年(明治27年)6月20日、政孝は広島県竹原市で生まれた。
4男5女の三男坊。竹鶴家は塩田とともに享保の時代から代々、酒造りを営む家だった。
晩年、政孝は孫に「わしは頭が良かった。勉強もできたし、気が利いて、人付き合いもうまかった。でもそれ以上にラッキーだった」と語っている。
その“ラッキーだったこと”の一つ目は、上の兄2人が家業を嫌ったことだった。そのおかげで、三男坊の政孝が醸造学を学ぶことができたのだ。
1913年(大正2年)、大阪高等工業高校(現・大阪大学)の醸造科へ進学した政孝。
まもなく卒業という年の正月。実家に帰っても日本酒の仕込みが冬のため12月まで仕事がないことに気づいた政孝は、その期間洋酒造りをやってみたいと考えた。
摂津酒造に入社
大阪の大手洋酒メーカー・摂津酒造に直談判した政孝は、社長に気に入られてあっさりと入社。
そして、入社してまもなく、驚きの提案があった。
「竹鶴くん、スコットランドに行ってモルト・ウイスキーを勉強してくる気はないか」
こうして1918年、神戸港からアメリカを経て5ヶ月後にグラスゴーに到着した政孝。2つの大学に聴講生として通う。
しかし、蒸留所での実習はなかなか実現せず、焦りばかりが募っていく。
政孝の自伝『ウイスキーと私』によると、《夜、うとうとしている間に涙が出ていて、朝、気がつくと、枕がグッショリ濡れている。そして日本に帰った夢をよく見た》と当時の心境を綴っている。
そして、重いホームシックに苦しむ政孝の前に現れたのが、リタだった。
リタの妹が自宅のお茶会に政孝を招待したことが出会いのきっかけ
リタは1896年12月14日生まれ、病院を営むカウン家の長女として生まれた。
幼少時から体が弱く、実務学校を卒業後は家事を手伝って暮らしていた。
政孝とリタの出会いのきっかけは、医学生だった妹のエラが、同じ大学に通っていた政孝を自宅のハイティ(伝統的なお茶会)へ招待したことだった。
その後も政孝は末弟のラムゼイに柔術を教えるからということでカウン家に通ううちに、ふたりは恋に落ちた。
そうして迎えた1919年のクリスマスイブの日、スコットランド伝統の「プディング占い」が催された。
言い伝えでは自分のケーキに6ペンス銀貨が入っていた人は「お金持ち」になり、指ぬき入りなら「いいお嫁さん」になるといわれている。
また、男子が銀貨で女子が指ぬきなら将来結婚すると言われている。
そして2人はクリスマスプディングの伝統のお告げどおりに、間もなく結ばれることになる。
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結婚
グラスゴーの登記所に2人の結婚の記録が残っている。
記録によると、ふたりが結婚したのは1920年1月8日。立会人は、リタの末の妹・ルーシーと友人だ。
外科医の父は政孝が渡英した年に47歳の若さで急逝。夫をなくしたばかりの母が、娘を遠い異国に嫁がせることにとても首を縦に振れなかった。
政孝は「僕がスコットランドに残ってもいい」と伝えたが、リタの政孝への思いは強かった。
「あなたの夢は日本でウイスキーを造ることでしょう。私はその手伝いがしたいの」
こうして晴れて夫婦となった2人は、同年11月、横浜港に降り立った。
帰国後の日本は騒乱の最中
「日本で初めての本物のウイスキーを造る!」として勢いよく帰国した政孝。
しかし当時の日本は、第一次世界大戦後の大恐慌まっただなかだった。
そして、摂津酒造も業績悪化で、ウイスキーどころではない状態に陥っていた。
悩み抜いた末、政孝は摂津酒造を退社する決意をする。
その後しばらく中学校の化学の教師となり、リタも子どもに英語とピアノを教えながら家計を支えていた。
寿屋(現サントリー)に入社して国産初のウイスキーを作るが…
1923年6月、政孝は寿屋(現サントリー)に入社。
10年契約でウイスキー造りを任され、工場の設計から従業員の教育まで、ほとんどすべてを中心となって行った。
しかし、苦労のかいなく「初の国産ウイスキー」はさっぱり売れなかった。
本格ウイスキー特有の薫香が、当時の日本人には「焦げ臭い」としてなじまなかったという。
政孝は《時代も早すぎた》と悔しがった。
しかし政孝は、諦めきれずに一念発起。1934年(昭和9年)に大日本果汁株式会社という会社を設立する。(これが後のニッカウヰスキー。)
場所には、冷涼な気候の北海道・余市を選んだ。
ウイスキーの熟成には最低でも数年はかかるため、その間余市名産のりんごでジュースを作ることで経営をつなげようと考えたのだった。
同年10月には、余市蒸溜所も完成。翌年、夫婦も北海道の余市に移り住んだ。これに喜んだのはリタだった。
なにより、気候や風景がスコットランドとそっくりだったのだ。
政孝には妻と一緒に趣味のゴルフを楽しむ時間も無かったが、それでもリタは政孝のために美味しい和食を作るべく、努力を続けた。
そして、余市で蒸留された最初のニッカウヰスキーがついに世に出ることになる。
しかし、その翌年、太平洋戦争が勃発してしまう。日本と米英の戦争だ。
リタにとって最も過酷な時代
リタには、最も過酷な時代の始まりだった。
日本に溶け込み、日本人になりきったつもりでいたが、途端に敵国人扱いをされてしまうのだ。特高警察に見張られ、近所の子どもに石を投げられる。
帰化していても、人目を忍んで生活しなければならなくなったのだ。
リタの故郷を取材したチェックランドの著書『マッサンとリタ』のなかに、当時のリタの叫びがある。
〈いったい、このわたしのどこがいけないんです。…このごろ思うんです。わたしのこの鼻がもう少し低くなってくれたら、髪の毛や瞳が黒くあってくれれば…〉
終戦間際の1945年7月、余市に空襲があったが、米軍が占領後に洋酒工場を接収するつもりだったため、工場は無傷だった。
そしてここでも町民たちによってあらぬ噂が流された。
「あれだけ目立つ工場に爆弾が落ちないのは、奥さんが英国人だからってね…」
「庭で敵機のパイロットにハンカチでも振って合図したのでは…」
つらい時代だったが、リタには同じ工場の社員など味方もいた。もうリタは孤独ではなかったのだ。
リタが「本当の日本人になれた」と思った瞬間
政孝とリタの間に実子はいない。リタは一度流産を経験し、以後子宝には恵まれていない。
政孝の姉の息子である威(たけし)を養子に迎えたのは終戦の年。20歳だった威の若さはリタの心を明るくした。
北海道大学の学生だった威。休みの日などはたびたびリタを散歩に誘ったという。
1951年、威が歌子と結婚すると、リタは優しいお姑さんになった。和食はもちろん、スコットランド料理も教えた。
1953年に孝太郎、2年後にみのぶが生まれると、リタは嬉々として孫の世話に没頭した。
孝太郎さんは、「僕が生まれたとき、お祖母さんは『ああ、これで私も本当の日本人になった』と言ったそうです」という。
祖母であるリタにとって威も歌子も大事な家族だが、生まれた時から家族という孫の存在は、心の底から身近な存在に思えたのだろう。
作った人の手間を考えて最高の状態で食べる―政孝のリタへの愛情表現
竹鶴夫妻は、そろって食へのこだわりが強い。
孫もただかわいがるだけでなく、食事のマナーなどには厳しかった。
絶対に温かいうちに食べないとダメで、決められた時間に遅れるとリタに怒られたという。
政孝は『2時間も3時間もかけて調理されたものを、5分や10分で食べるのはダメだ』と言っていたという。
作った人の手間を考えて最高の状態で食べる。そして必ず料理を褒めて、意見を言う。それが、政孝のリタへの毎日の愛情表現でもあった。
夕食後、政孝はウイスキーを飲みながらくつろいでいたという。
「この墓はな、わしとリタ、2人だけの墓だ。2人だけの」
リタは、年を重ねるにつれ、病床に伏せることが多くなっていった。
結核、がん、喉のしこり、さらに、高熱に長くおかされた。
最後の5年間、リタは多くの病いに苦しめられた。政孝はありったけの財をなげうち、彼女に最善の治療を受けさせ続けた。
1961年1月17日朝、リタは自宅で急逝。肝臓病だった。
看護師が2人ついていたが、いつ亡くなったかわからないほど、苦しむことのない静かな最期だった。
その日のことを孝太郎さんは鮮明に覚えているという。
『リタが死んだ!おばあさんが死んじゃった!』と、お祖父さんが大泣きしながら、家の中をウロウロ歩き回っていました。あんなに声を上げて泣く大人を見るのも初めてだったし、うろたえたお祖父さんを見るのも初めてで…。今も忘れられません」
2日間、政孝は自分の部屋に閉じ龍もった。葬式の準備もままならなかった。火葬場へも「わしはいかん」と行くのを拒んだ。
骨は九谷焼の香炉に入れ、それを床の間に置いて、墓ができるまでずっとそばで暮らしたという。
《もし私とではなしに、英国人と結婚して英国で生活していたら、リタの妹たちのようにまだ生きていたのではないか、という思いが私の胸を締めつけた》―著書『マッサンとリタ』より
1965年、リタが好きだった余市工場が見える小高い丘の上に墓が建てられた。
政孝は墓石に最初から自分の名前も刻ませたという。そして政孝は、当時の社員にこう言った。
「この墓はな、わしとリタ、2人だけの墓だ、2人だけの」
「お前は国際結婚だけはするな」
政孝は、社員を集めて、宴会や娯楽の会を開くのが好きだったという。
リタの死後、宴会の際に必ず歌ったのが、西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』だったという。
リタが亡くなる前年、大ヒットした歌で、2人で聴いた最後の思い出の曲だった。
最晩年、政孝は東京の大学病院に入院。
孝太郎さんは幼少の頃からさまざまな経験や知恵を政孝から授けてもらっていた。
あるとき、政孝はベッドの中からポツリとこう言ったという。
「おまえは、国際結婚だけはするな。おばあちゃんには苦労をかけたからな」
そして、それが遺言になった。
1979年8月29日、竹鶴政孝永眠。享年85。
リタの死から18年。政孝の心からは亡くなるまで、若い情熱から日本へ連れ帰ってしまった妻リタへの罪の意識が消えることはなかったのだ。
どんなに傷ついても、日本人になりきる姿勢を貫いたリタ
リタは政孝が嘆くほど日本に来て苦労ばっかりだったのだろうか。
スコットランドとの実家とのやり取りは、届くのに2ヶ月かかる手紙しかなかった当時。
戦時中は英語は敵性語だとされ、それも禁止されていた。
彼女が晩年、故郷へ宛てた手紙がある。
《老いていくのは孤独なことだけれど、自分の人生は自分でつくってきたのだということを忘れたくないわ》
リタは一度決めたことは最後まで貫く潔い女性だった。どんなに傷ついても日本人になりきる姿勢を生涯変えることはなかった。
孫の孝太郎が生まれた頃、リタは正座して、よく、卓上ミシンをかけていたという。
縁側で、風鈴が鳴って…それはまさに日本女性の風情そのものだった。
明治生まれの夫婦は、つらい胸のうちを、互いに口にすることはなかったのかもしれない。
ただその振る舞いで互いの愛を伝えあっていた。
政孝は、読書好きのリタに洋書を買ってきてはプレゼントしていたという。
本には必ず、添え書きがしてあったという。英語で、愛情たっぷりの添え書きだった。当時、明治の人にとって信じられないぐらいのロマンチストだったのだ。
政孝・リタ夫妻亡き後も、竹鶴家のクリスマスの食卓には必ず、リタが歌子に伝授したローストビーフとクリスマスプディングが並んだ。
夏の終わりから、ドライフルーツを洋酒に漬けて仕込み、じっくり熟成させたあと、イブの朝から蒸し上げる。そして夜、ディナーの最後にそのプディングが登場する。
部屋を暗くし、蒸し上がってフワフワのプディングにブランデーをかけて火をともす。
ふわりと青く燃え上がった炎が立つ間、願い事を心のなかで唱えるという。
95年前のカウン家で、同じ青い炎を見つめあったマッサンとリタ。1世紀近くたった今も人々の心にその炎は美しく輝き続ける。
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