本人歌唱の「夢で逢えたら」も収録!
2014年12月3日に大滝詠一、初のベストアルバム「Best Always」がソニー・ミュージックレコーズから発売される。
「Best Always」は過去にリリースしたシングル楽曲を中心に構成された全キャリアを網羅するベスト盤で、代表曲とも言える「君は天然色」からはっぴいえんど「12月の雨の日」、CMシリーズの「Cider ’73 ’74 ’75」まで、レーベルの垣根を大胆に超えて収録している。
初回生産限定盤はCD3枚組で、DISC3は「ナイアガラ・ムーン」「夢で逢えたら」「幸せな結末」「恋するふたり」のカラオケが収録されており、マニアックなファンにとってはDISK3が本編といってもいいくらい楽しめる。
ファンとして注目なのは、やはり未発表の本人歌唱による「夢で逢えたら」。
大瀧詠一が作詞作曲、プロデュースした楽曲で、吉田美奈子やラッツ&スター、桑田佳祐、松たか子、EXILE ATSUSHIなど、40組以上のアーティストにカバーされた名曲だ。ファンにとってはこの一曲だけでも購入する価値があるだろう。
また、大滝詠一といえば「A LONG VACATION」という人でも楽しめるように、主にディスク1ではナイアガラ・レーベル時代を収録しており、ディスク2では「ロンバケ」以降の楽曲が収録されている。
ソロ直後やナイアガラ・レーベル時代のサウンドはまったく受け付けないというファンも安心して楽しめるように配慮されているのはベスト盤として大きなポイントだ。
[ad#ad-1]
2013年12月31日、急逝からはや一年
ミュージシャンの大滝詠一(おおたき・えいいち、本名=大滝 榮一)さんが解離性動脈瘤のため2013年12月31日死去した。65歳という若さだった。
細野晴臣を紹介され、1970年「はっぴいえんど」としてデビューし、1981年には、シングル「君は天然色」がヒット。同曲が収められたアルバム『A LONG VACATION』(1981年)がミリオンヒット。「第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞」を受賞。
2014年3月21日には1984年3月21日に発売されたヒットアルバム「EACH TIME」の30周年記念アルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売が予定されていた。
TOKYO-FM系(全国38局ネット)にて放送する「山下達郎サンデー・ソングブック」での山下達郎との正月対談を期待していたファンにとっては、あまりにも唐突でショッキングな年末のニュースとなってしまった。
今回は、大滝詠一が立ち上げた『ナイアガラ・レーベル』にフォーカスを当てて、彼が遺した伝説を今再確認したい。
シュガー・ベイブを生んだ『FUSSA 45 STUDIO』
1974年から78年までわずか4年の間に11枚ものアルバムを制作した大滝詠一。その拠点となったのが大滝が福生に所有していた『FUSSA 45 STUDIO』。
ここで行われた笛吹銅次(大滝詠一のエンジニア名)の仕事ぶりは、日本の音楽業界では“伝説”だ。
大滝がこの福生スタジオで立ち上げた『ナイアガラ・レーベル』の第1弾では、山下達郎、大貫妙子らが在籍していた、今では伝説のグループ「シュガー・ベイブ」をプロデュースしている。
しかし、『ナイアガラ・レーベル』は出だしこそまずまずだったものの、売れ行きはどんどん落ち込み、ついには1978年にスタジオ閉鎖の憂き目に遭うとともに、録音エンジニアとしての笛吹も活動停止することになってしまう。
そして1980年に大滝詠一はCBSソニーに移籍。はっぴいえんど時代の盟友である松本隆と組んだアルバム『A LONG VACATION』(1981年)がミリオンヒットし、商業的な大成功を収めるのである。
本人は福生スタジオで制作された『ナイアガラ・レーベル』時代の作品について、「売れないだろうし、何年経っても理解されないだろう」と語っていた。
今回は、誰もが知っている大滝詠一の『A LONG VACATION』より前の、これまであまり多く語られることの無かった「FUSSA 45 STUDIO」で制作された伝説のアルバムの数々をご紹介しよう。
現在でも“福生の伝説”がリマスターで楽しめる「30周年シリーズ」
大滝が福生スタジオ時代に制作したアルバムは11枚になるが、そのうち7タイトル(アナログ盤換算だと8枚分)が30周年記念盤としてリリースされており、現在でも容易に入手可能だ。
30周年シリーズとしてのリリースが見送られたものは1977年に発売された大滝によるプロデュース作品、シリア・ポール『夢であえたら』、『カレンダー』発売の翌年リリースされたセルフ・カバー・アルバム『DEBUT』、そして「FUSSA 45 STUDIO」時代最後の作品(福生が使われたのは録音の部のみ)となった『LET’S ONDO AGAIN』だ。
SONGS 30th Anniversary Edition | Niagara Moon 30th Anniversary Edition |
最初の2枚は1974年から75年、スタジオの誕生とともに始まる。
ナイアガラ・レーベルの第1弾はアーテイストのプロデュースで始まった。シュガー・ベイブは山下達郎、大貫妙子らが在籍していた今では伝説のグループだ。
大滝は当時の笛吹銅次を“新米”と呼んでおり、それゆえ録音面では山下有次氏の協力に助けられたと言う。
録音機材はリースが中心なので福生ではベーシック録音や一部ダビングが行われ、そのほかのダビングやミックスは外部スタジオが使われた。
大滝詠ーの福生時代のソ口第一作である『NIAGARA MOON』も同時期(1975年)に制作。
ミックスは外部スタジオを使用している。
なお30周年盤には初出のボーナス・トラック(アウト・テイク含む)が追加され、それらを聴くと基本的に音は録音時に完成していることが分かるのが非常に貴重だ。
Niagara Triangle Vol.1 30th Anniversary Edition | GO!GO!NIAGARA 30th Anniversary Edition |
1975年末から始まった『TRIANGLE』セッションは山下達郎、伊蔵銀次、大滝詠一のコラボ。福生に16trマルチとコンソールが導入され、録音のほとんどが行われたが、ミックスはまだ外部スタジオだ。「アミーゴ」トラックをはじめボーナス・トラックが追加されている。
福生に待望の16trマルチとミキサーが常設され、フル稼働で作業は行われるが、ミックスは外部スタジオを使用。
『GO!GO!』辺りからスケジュールが押し始める。そのシワ寄せがミックスに悪影響を及ぼしたと感じていた大滝は、CD発売ごとにリミックスやリマスタリングなど試みるが、結局30周年盤ではオリジナルミックスと96年(リミックス)との組み合わせに落ち着いた。
多羅尾伴内楽團 Vol.1&Vol.2 30th Anniversary Edition | ナイアガラ・カレンダー 30th Anniversary Edition |
次の2枚(正確には3枚)は1977年に行われ、一部のダビング以外は録音、ミックスも福生。その中心が『カレンダー』で、ストリングス以外の録音からミックスまでが福生で行われ、大滝のアイディアも絶好調だった。
ここでは多羅尾伴内楽團 Vol.1&Vol.2 30th Anniversary Edition(通称:楽園)について言及しよう。Vo1.1&2両方とも録音、ミックスまで福生が使われている。Vol.1はスティールーギターがメインのインスト・アルバム。当初模様変えしたスタジオのテスト用に開始されただけに実験色が強いサウンドが多い。
福生のライブ・ルームで録音されたドラム・サウンドやコンパクト・エフェクタの大胆な使用など笛吹が試行錯誤した痕跡をたっぷり聴くことができる。
Vol.2はエレキインスト。実験色という点ではVol.1より落ち着くが、その分、Vol.1と『カレンダー』で培われたノウハウによる手慣れたサウンドが安心して聴ける。
NIAGARA CM Special Vol.1 3rd Issue 30th Anniversary Edition |
NIAGARA CM Special Vol.1 3rd Issue 30th Anniversary Editionは、大滝が手掛けてきたCM曲集。内容はあらゆる意味で聴きどころ満載。
何も考えずにアルバムそのものを楽しむのが一番幸せなのだが、時にはサウンドに着目して追いかけてみるのも面白い。例えば、大滝が初期のころからトライし続けたスペクターサウンド的アプローチが次第に円熟していき、吉田保氏を起用した辺りから一気に『LONG VACATION』色を帯び始めるくだりなどが時系列を追いながら確認できるという具合。
これなどはほんの一例であり、本文でも触れた通り大滝の入れ子構造はどの曲でも染み渡っている。
大滝はのちに、自らの音楽制作スタンスについて語っている。
きっと今ごろ、天国で新しいスタジオを作る準備を進めているだろう。
2014年3月20日に開催された“お別れの会”で明かされた「最後の言葉」
2014年3月21日、東京・港区のSME乃木坂ビルでお別れの会が開かれ、バンド「はっぴいえんど」で共に活動した細野晴臣(66)、松本隆(64)、鈴木茂(62)をはじめ、女優・松たか子(36)ら約250人が参列。一般向けの献花にはファン1000人以上が訪れた。
会の最後には静子夫人があいさつに立ち、亡くなった時の様子を明かした。
静子さんによると、大瀧さんは亡くなる1週間前に「風邪をひいた」と体調不良を訴え、2日間寝込んだそう。
しかし、風邪の症状はみられず、足腰に力が入らない状態で、大瀧さんも「俺、脳が疲れたよ」と漏らしていたとか。
それでもアルバム『EACH TIME 30th Anniversary Edition』の制作中だったため、通院することはしなかった。
2013年12月30日もスタジオで仕事を行い、午後5時ごろに帰宅。
夕食をとった後に夫人が背を向けてリンゴをむいていると、突然、「ママ、ありがとう!」と大声を発し、驚いた夫人が駆け寄ると、大瀧さんはイスにもたれかかるような体勢でぐったりしていたという。
静子夫人は「『ありがとう』という言葉は、主人を支え、見守ってくださった方々にお礼を述べてほしいということだったと思います。楽しいことが好きな人でした」と最愛の夫を偲んだ。
はっぴいえんどメンバーによる弔辞
また、はっぴいえんどの3人はそろって弔辞を読んだ。
松本は「僕の言葉と君の旋律は毛細血管でつながれていると思いました。片方が肉体を失い、残された方は心臓を素手でもぎ取られた気がしました」と、多くの名曲を生んだ盟友の急逝を悔やんだ。
細野も、「大瀧君の濃厚なオーラは残っているから…また一緒にやろう」と、天国に向かって“再結成”を呼びかけた。
会には「師匠」と呼ばれた大瀧さんの人柄を示すように、幅広い顔ぶれが集った。
大瀧さんは公の場に出るのは好きではなかったが、テレビや映画を観るのは好きで、友人だった俳優・佐野史郎(59)やタレント・清水ミチコ(54)らにアドバイスを送ることが多々あったという。
清水は、「テレビで音楽ネタをやると、すぐにメールで『こうした方がいいんじゃない?』って連絡がありました」と交流秘話を明かした。
亡くなって3ヵ月経ち、この日にお別れの会が開催されたのには理由があった。
ヒットアルバムとなった『A LONG VACATION』がリリースされたのが、1981年(昭56)3月21日。以降、大瀧さんのアルバムは決まって3月21日に発売され、この日は大切な記念日だった。
さらに会場は、大瀧さんが晩年に利用したレコーディング・スタジオが入っており、この日はギターや手書きのコード譜などゆかりの品々が展示され、参列者は見学しながら大瀧さんと最後のお別れがゆっくりできるという計らいが施された。
そしてこの日は、大瀧さんが最後に手がけていたアルバム『EACH TIME 30th Anniversary Edition』が予定どおりに発売された。同アルバムは、オリコン・デイリーアルバムチャートで2位を記録した。
ご冥福をお祈りいたします。
LEAVE A REPLY