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葛西紀明が母の死と妹の難病を乗り越えレジェンドになれた理由

葛西紀明が母の死と妹の難病を乗り越えレジェンドになれた理由

円熟の140m大飛行で45歳は金メダルを獲る!
ソチ五輪、男子ラージヒル決勝の1回目で、K点をはるかに超える139mの大ジャンプを見せた葛西紀明。

個人戦の後に『まだあきらめずに金メダルを目指してがんばる』と言っていたとおり、次の五輪で個人の金メダルを狙っている。紀明はもう先を見据えているのだ。

そして、4年後、8年後に金を連続で獲っていく熱意に溢れているのだ。

次の金メダルに向けてすでに動き出している葛西

葛西は2月23日には次のワールドカップが開催されるスウェーデンに向けて出発する。41歳とは思えないエネルギーだといえるだろう。

多くのトップアスリートを指導してきたバイオメカニクス(生体力学)の研究者・小山裕史氏によると、葛西はジャンプのアプローチが非常に柔らかいのだそうだ。

助走の際の姿勢でも、ヒザと腰の筋肉がリラックスしているので、踏み切った瞬間に空中へバーンと飛び出せるのだとか。

一般的には加齢とともに筋肉をコントロールする力は鈍くなっていくと言われているが、葛西にはそれが感じられないのだという。

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“悲運のエース”葛西紀明を支えた母と妹の存在とは

北海道・下川町に生まれた彼がジャンプを始めたのは小学3年生のときだった。

町営スキー場のジャンプ台で遊んでいる葛西を見て、ジャンプ少年団の指導者がスカウトしたことが、葛西のキャリアの始まりだった。

ジャンプは道具に費用がかかるため、両親はマラソンをやらせたかったが、紀明は『ジャンプをやりたい』と目を輝かせていたという。

才能はピカイチだった葛西の栄光、そして苦難の時代

葛西は小中学校時まで、先輩や指導者が使わなくなったスキー板やジャンプスーツで飛んでいた。

若干19歳で当時最年少記録でW杯優勝、21歳でリレハンメル五輪の個人NH(ノーマルヒル)で5位、団体で銀メダルを獲得。

葛西は自らの才能を開花させていたのだった。

だが、ここから葛西紀明の苦難の時代が始まってしまう。

1994〜95年のシーズンでは、練習中に二度も鎖骨を骨折。ケガが治っても恐怖心は残り、調子は上がらなかったという。

1995年の夏場に、ようやく飛べるようになった葛西は、サマージャンプ場で練習を繰り返した。

そして1997年1月にW杯で2位に入り、見事復活を遂げたのであった。

1998年長野五輪は「神様がくれた試練」

満を持して迎えた1998年の長野五輪。

葛西は開催2ヵ月前の練習中に左足首を捻挫し、そこから調子を一気に落としてしまう。

ラージヒルに出場することはできず、団体戦も前日に代表メンバーから落ちてしまうのだ。

日本チームが団体戦1本目を飛んでいるとき、葛西は宿舎で涙を流していたという。

彼が試合会場に着いたとき、優勝を決めた船木和喜に仲間が抱きついていたところだった。

葛西は「神様がくれた試練だった」と振り返っている。

葛西「妹に金メダルをせんじて飲ませたい」難病に倒れた妹と母の死

いつの間にか葛西は悲運のエースと呼ばれるようになっていた。

ソルトレークシティ五輪では直前に所属企業が経営破綻してしまい、満足な練習ができずにNHで転倒、LHは決勝1回目敗退で、団体戦には出場できなかった。

バンクーバー五輪ではLH8位、団体戦5位。五輪のたびにメダルを期待されてはいたが、いつもあと一歩届かなかった。

そのうえ私生活では家族にも悲劇が襲った。

妹の難病

5歳年下の妹・久美子さんは高校に入学してすぐに血液の難病に倒れ、今も闘病生活を送っている。

そのため葛西は「妹に金メダルをせんじて飲ませたい」が口グセになっていた。

母の死

1996年には最愛の母・幸子さんが火事に巻き込まれ、翌年に48歳で亡くなった。

しかし、葛西は弱音を吐かなかった。叔父である鳥山博さんによると、妹の入院費や生活費は彼が面倒を見ていたという。

お母さんのお墓も紀明が建てたそうで、鳥山さんが紀明に『(お金は)大丈夫か?』と聞いたら、『心配いらないよ。100万円くらいなら、ひとっ飛びだ』って笑い飛ばしていたという。

葛西はお盆、命日、大事な試合の前には、母親の墓参りを欠かさないという。

姉・紀子さんによると、生前、母は札幌市に行くと、ある和菓子を買ってきて、紀明に差し入れていたという。

つまり、このお菓子は母の味。紀明はそれをソチに持って行き試合前に食べる勝負メシにしていたのだ。

今回のメダルは母が背中を押してくれたのかもしれないと語った。

母「あんたは強い人間だから、負けることはないと信じています」

葛西は遠征に向かう際、母からもらったある手紙をいつも持って行くという。

これは、長野五輪前、不調に喘いでいた時期に受け取ったもので、
「あんたは強い人間だから、負けることはないと信じています」
と書かれている。

しかし、今回のソチ五輪で葛西はあえてこの手紙を自宅に置いてきたのだという。

41歳にして男はまた強くなったというわけである。

葛西紀明
葛西はすでに4年後をにらんでいるが、その先には日本史上最年長の五輪メダル獲得という大偉業も迫っているのだ。

葛西のパワーの源は「怒り」

トリノ五輪でともに戦い、現在は早稲田大学スキー部コーチの一戸剛氏によると、葛西さんはネガティブなことは絶対言わないのだという。

その代わりに、『なんでできないんだ!』という怒りにも似た言葉をよく自分自身に向けて発していたという。

この怒りが彼の力の源なのだろう。

次の五輪で140mジャンプの金メダルを目指す!

ソチ五輪日本選手団の主将に選ばれてからは、さらにまわりを見るゆとりができていた葛西。

練習でもムリして回数を飛びすぎず、自分と向き合う余裕も出てきていた。

ソチのラージヒル個人戦では、わずかに踏み切りのタイミングが遅れていたと言われており、風とタイミング次第で、まだまだ飛距離は伸びると見られている。

次の五輪で140m飛んでの金メダルも十分ありうるのだ。

葛西は、何歳までとは決めていないですけど、やっぱり行けるところまでは行きたいと記者のインタビューに答えている。

その夢とは、“もちろん、金メダル”。葛西の“レジェンド”はまだまだ続くのだ。

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